日航ジャンボ機墜落・上空からのレポート

8月12日がめぐってきた。先月、福岡で過去の取材体験を話してほしいという依頼があり、少人数の集まりで「日航ジャンボ機の墜落事故」について話をする機会があった。その際、「事故は自衛隊のミサイル誤爆で、日本政府がそれを隠しているというのは本当ですか?」と質問を受けて驚愕した。
一体どうしてそんなフェイクニュースが出回るのだろうか。
信じられない思いと共に、39年前の事故の記憶がよみがえってきた。

1985年8月12日の午後7時過ぎ。乗客乗員524人を乗せた羽田発伊丹行きの日本航空123便が突如レーダーから消えたという通信社からの第一報が飛び込んだ。お盆休みでのんびりしていた報道フロアはその一報を受けて騒然となった。何が起きたのか、日航機は無事なのか、全く情報がないまま、
ジャンボ機の機影が消えた長野方面にむけて第一陣の取材班が本社を出発した。

仕事を終えて帰ろうとしていた私も先輩に言われるまま模造紙に油性ペンで500人を超す乗客の名前をひたすら書き続ける作業を徹夜で行っていた。

GPSがない当時、行方不明となったJAL機の行方は以前として不明だった。翌日の午前5時、夜が明けてあたりが明るくなると、報道へリを飛ばして上空から現場を撮影することとなる。カメラマンだけではなく記者を乗せる事になったのだが、報道フロアにはレポートのできる記者が誰もいない。仕事の出来る同僚や先輩記者はすでに現場に向かっているか、早朝で出社していないかどちらかだった。

まさに空白の時間帯。「誰でもいいから乗せろ!誰もいないのか?」…そんな折、両手指を油性ペンで真っ黒に汚しながら模造紙と格闘していた入社4年目の私の姿が上司の目に止まったのだった。

大事故の取材経験もヘリに乗るのも初めてという記者を出すことに反対意見もあったようだが、他にいないのだから仕方がない。そして・・・
私とカメラマンを乗せたヘリコプターが長野県と群馬県の県境にある険しい頂稜の上空を飛んだ。
へりの床は透明のアクリル板で出来ており、足元を覗き込むと深い緑の山に吸い込まれるようだった。二重遭難を避けるため、ヘリは尾根との衝突を避けるように高度を変えて旋回する。遠くで噴煙が上がっているのが見えた。徹夜明けでのはぼうっとしてのどはからからだ。大きく息を吸い込むと、焦げたようなかすかな匂い。

へりが大きく旋回し、視界が広がったと思った次の瞬間、破損したジャンボ機の主翼の一部が突然目の前にど~~んと出現したのだ。大きく黒々と記されたJALのマーク。日航123便は、やはり…、やはり…、墜落していたのだった!昨夜から行方不明となっていた日航機の消息を日本中の誰よりも早く知る事故の第一目撃者となった瞬間だった。

墜落の衝撃でなぎ倒された山肌を呆然と見つめているとカメラマンが指でキューの合図を出す。
「早くレポートして」「えええ?私が?」「他に誰がいるんだよ!」「ええ~~」・・・言葉が全く出てこない。「私は今、え~~墜落現場の上空に…え~」「あ~」「う~」

航空史上最悪の墜落事故を目の当たりにして一体どう伝えればいいのか。

ヘリで事故現場上空からレポート
(2024年8月13日)

「噴煙が~」「現場は~」へりの騒音で自分の声すら聞きとることができない。結果、意味不明のとぎれとぎれの言葉を大声でただ叫び続けるという、テレビ史上最悪と呼ばれた超へたなレポートが公共の電波にのったのだ。(上記の写真では徹夜明けで顔全体がむくんでいる)

私のレポートが放送されると、アナウンス室へは地方の系列局から「へたなアナウンサーを出すな」と抗議が殺到し、「あれはアナウンサーじゃない。記者だ(だから下手なのだ)」と報道局は釈明に追われ、私をヘリに乗せることを決めた報道部長がアナウンス室長に菓子折りを持って謝罪に行くというおまけもついた。この体験は39年たった今でも時折夢に出てくる。

行方不明の航空機が墜落した事実を、真っ先に目撃した報道の人間にはそれを正確に冷静に伝える責任がある。当時の私にはその責任を果たす経験も技術もなかった。悲惨な現場から冷静さを失わずに伝える記者としての覚悟ができるまでにはその後さらに3年半の年月を必要としたのだった。

『続く』

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ABOUTこの記事をかいた人

日本テレビで記者職を34年。その後討論番組を担当し、今年1月に 定年退職しました。これまでの経験を生かして働く女性の悩みに答えて 少しでも助けになればと思っています。よろしくお願いします。