こんにちは。テレビ記者38年やってました。廣瀬祐子です。引き続き政治部新人記者時代の話です。
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戦後政治の総決算を掲げて日米同盟の強化をめざす中曽根総理は一方でアジア各国との友好関係の促進もめざした。1984年3月、中曽根総理は中国を公式訪問し、趙紫陽首相、胡耀邦総書記、鄧小平中央顧問ら中国要人と精力的に会談した。この時私は初めて同行記者団の一員として総理の中国訪問に随行する事となった。はたして大丈夫なのか?と心配する周囲の声をよそに外務省の中国専門家に日中関係の課題と将来性についてレクを受ける。出発前日には思いついて外語大の中国語学科の友人に電話をし、「日中友好万歳」は中国語でなんと発音するのかを教えてもらう。彼女は「日中というより中日と相手に敬意を表したほうが良い」とアドバイスしたうえで、発音(ジョンリーヨウハウワンツイ)を教えてくれた。私はそれを何度も練習したのだが、何も話せないよりは少しでも会話ができたほうがよいと気軽に考えていたのだった。後にそれが大きく役に立つとは夢にも思っていなかったのだが…
政府専用機で総理同行記者団として北京へと向かう。人民大会堂前の広場は一体何事か起きたのかと思うほどの人であふれていた。人民服を着て日に焼けた純朴な人々が、目をきらきらさせながら規制線の内側で押し合いへし合いしながら同行記者団を食い入るように見つめている。
「きょうは何かのお祭りですか」と随行の秘書官に聞くと「日本の総理一行を歓迎しているのです。外国からの要人は珍しいので」と説明してくれた。


大歓迎を受ける総理一行
上海に立ち寄り、武漢までは中国民航機で移動した。空港を出てバスの車窓から外を見ると沿道に詰めかけた中国人達が道路からあふれんばかりに身を乗り出し、はじけるような笑顔をバスの一行に向けていた。走行するバスがもうもうと土煙を巻き起こしていたが、気にするそぶりもなく両手を大きく振って歓迎してくれたのだった。武漢ではこの民衆の歓迎ぶりを記者レポートで伝えることにした。レポートを撮り終わってから沿道に並ぶ子供達に向かって「中日友好万歳!」と試しに中国語で話しかけると途端に「うわ~」という歓声と笑い声があがった。日中戦争という暗く過酷な歴史が横たわっていたのだが、若い世代は新しい未来に向かっているように感じられた。

趙紫陽首相との首脳会談が終わると内容について外務省のレク(=概要説明)を受けて原稿を作る。同行テレビ記者の仕事は総理の会談場所へ先回りして取材しながら、会談後は外務省からレクチューを受け、ニュース原稿にしたり、カメラの前でレポートするのが主な仕事である。北京支局の先輩記者に助けてもらいながら「首脳会談では朝鮮半島の平和と安定が世界の平和と安定にとって重要であるとの認識で一致した」と会談の中身をレポートする。当時ソビエト連邦はアメリカとの間でし烈な軍拡競争を展開しており、緊張状態が続く中で前年に領空侵犯した韓国の民間航空機、大韓航空機を撃墜するという暴挙に出て国際的に大きな批判を浴びていた。ソ連は北朝鮮の後ろ盾でもあり、アジア太平洋地域における海空軍の軍備増強は、朝鮮半島を含む東アジア全体の安全保障に大きな影響を与えていたのだった。ソ連の脅威に対して中国と日本は共通の懸念と利害を持っていたのだった。夜は趙紫陽首相主催の歓迎の宴が開かれ、中曽根総理は飛び入りで盆踊りの輪に加わり、宴は日中友好の温かいムードに包まれた。私は同行記者団唯一の女性ということもあったのか、どこへ行っても笑顔で迎えられ勧められるまま強い酒をしたたか飲んで気絶したように眠った。そして翌日…
まさかの寝坊と「開けごま」の呪文
寝すごした!!この日は胡耀邦総書記との昼食を兼ねた会談が昼前から予定されていた。改革開放路線を推し進める胡耀邦総書記は前年に日本を訪問し、未来志向の日中関係の構築に向け中曽根総理とも協力しあう盟友の関係になっていた。その昼食会の取材に間に合わない!?宿泊先の北京飯店から会談場所である釣魚台国賓館までタクシーを飛ばし、ぎりぎりの時間で到着したのだが、入り口で重大なことに気づいた。記者であることを証明する身分証をホテルの部屋に忘れてしまったのだった!あああ、命より大事な身分証!やってしまった!生来のおっちょこちょいはどうしても治らない。取りに戻っている時間がない!
釣魚台国賓館は広大な庭園の中に佇む迎賓館で、入り口には銃剣を構えた警備の衛視が二人立っていた。事情を説明してなんとか中にいれてもらわなければ…私は総理に同行して日本から来た記者であり、取材のために中に入りたいと英語で説明したが、彼らは全く表情を変えない。私は中国語が話せない。彼らは英語も日本語も通じない。じわりとわき汗が噴き出してくる。どうしよう…このままでは取材に間に合わない、というより取材場所にすら行けない!
切羽詰まった私は身振り手振りつきで日本語で必死に訴えた。
「私は…日本から…やってきた」(=両手を広げて飛行機がぶ~んと飛ぶジェスチャー)
「私は記者である」(=テレビカメラの撮影の振り+マイクを持ってレポートのしぐさ)
「私はどうしても中に入りたい」(=奥を指さして入れてほしいと手を合わせる懇願ジェスチュアー)
はたからみれば本当に滑稽な光景だっただろうと思う。衛視二人は冷たい目で私を見るだけで無言。私は必死だった。もはや打つ手はないか、とあきらめかけた時に突然ひらめいた言葉。中日友好万歳!そう、私はそれを言いたい!気がづくと「リージョンヨウハウワンツイ!!」と大声で叫んでいた。
すると驚いたことに彼らは突然、銃剣を縦にし、無言のまま扉を開いてくれたのだ。まるでアラビアンナイトに出てくる開けゴマの呪文で大きな岩の扉が開いたようだった。彼らは相変わらず無言だったが、少し口元が緩んでいたような気がしたのは錯覚だったのだろうか。私の必死な気持ちが国境と言語を超えた瞬間だ!しかし感動している暇はない。釣魚台の建物内を全力疾走した。伝統的な中国の建築様式を取り入れた荘厳な建物の中はヒンヤリとしていて人の気配はない。私の靴音だけがこっこっこっとあたりに響きわたる。伝統工芸品の歴史ある壺や絵画や彫像が両脇に並んでいたが、鑑賞する余裕もない。わき目も降らずに猛ダッシュで走り続けた。報道陣の待機場所まで息を切らせながらたどりつくと、先輩記者が私を見て一言「遅い!!」と怒った。平謝りに謝りながら「開けゴマ」の呪文で中に入れたと説明したが、彼は「中国の衛視がそんなことを許すはずがない」と全く信じなかった。
私の中国訪問で特筆すべき成果はないのだが、武漢の沿道で中国人の子供達をバックにレポートしたのをNHKの報道局幹部がたまたま見ていて「女性が政治ネタをレポートするのは実に良い。うちも来年から女性記者を採用しよう」と言ったという話を後で上司から聞かされた。真偽は確認していないが、その後NHKも女性を採用するようになったのだから、私の存在が他局の後輩女性記者の誕生に影響したのだとすれば、失敗ばかりの同行取材体験も何かの役には立ったのかもしれないと思う。

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