こんにちは。テレビ記者38年やってました。廣瀬祐子です。きょうは新人記者時代の思い出を書こうと思います。まさか総理大臣から驚くような言葉を突然聞くとは思ってもいませんでした。この経験が政治部異同のきっかけとなりました。ひょんなことからでした。
1982年9月。報道局社会部遊軍で新人研修を受けて3か月後、新人記者も企画を出すように言われ、私は「変わりゆく中学受験」という企画取材を開始した。暗記中心の試験が思考力重視の内容に変わり、進学塾の授業方針が変わってきたという新聞記事がきっかけだった。カメラマンと連日、進学塾へ取材に行くが、映像は授業風景と生徒や先生のインタビューのオンパレード。
「一体何が言いたいんだ?映像で伝えるものが何もない!」
「それは…ナレーションで説明します」
「テレビニュースを何だと思っている。新聞記者とは違うんだ!」
テレビと新聞は違う!
「テレビの企画は文章や言葉ではなく映像でわかりやすく訴えるものがないと成立しない」という基本を私はまるでわかっていなかった。放送予定前日になってデスクから「これでは放送できない」と宣告される。放送を楽しみに待っていた進学塾の子供たちががっかりしたと先生から電話で聞かされ、私は自分の力不足が悔しくて人目もはばからず報道フロアで大号泣した。報道局内では全く使えない新人というレッテルがしっかりと貼られた。

そしてその様子を見ていたのが政治部のデスクだった。
「社会部で使えない記者なら政治部が使う。10日ほど貸してくれ。猫の手も借りたい」
こうして私は臨時の猫の手として政治部に貸し出されたのだった。82年10月、再選が確実視されていた鈴木善幸首相は、安保政策をめぐりぎくしゃくした日米関係と国会運営に苦悩し、総裁選への出馬に明言を避け続けていた。鈴木総理の番記者として総裁選出馬宣言を聞き洩らさずに本社に伝えるのが私に与えられた役目だった。総理番というのは年次が一番下の政治記者がやる仕事で、総理大臣に張り付いて常に動向を連絡する。例えば、自民党本部のエレベーター前で、総裁室に出入りする政治家を逐一チェックして先輩記者に報告するのだが、政治家の顔と名前が全くわからない。
「頭の禿げた人が総裁室に入りました!」
「どのくらい禿げてる?」
「つるっぱげです!」
「じゃあ、○○だな」(人名はあえて伏せます)
まるで伝書鳩のような仕事。総理が官邸や自民党本部の外に出る時は車で後を追いかけるので、うかうかお昼も食べられない。「総理出ます」と聞けばすぐについていかなければならないので昼食抜きになることもざら。夜は夜で都内に住む鈴木総理の自宅前で深夜まで帰りを待ち続けるのだ。総裁選に「出馬する」という総理のコメントを取るため、新聞・通信・テレビの記者10数人とカメラマンで待機するが、鈴木総理は記者団には目もくれず質問にも一切答えず通り過ぎるのが常だった。
予想外の総理の言葉
張り付き10日目の10月11日の午前1時半すぎ。この日のマイク持ちの順番は日本テレビで、私はマイクを持って突っ立っていた。(テレビ各社のマイクを1本にまとめて総理の声を拾う役回りである)
鈴木総理がSPに囲まれて黒塗りの公用車から降りてくる。いつものように通りすぎるだろうと思っていたら、総理はふとカメラの前で立ち止まった。マイクを持つ私の目と総理の目ががっつりと合う。(土気色の顔をしているなあ、相当疲れているんだろうなあ…気の毒に…)と思った次の瞬間、総理が言った。
「私は総裁選への推薦を辞退いたします」
?????え?辞退って?総裁選に出ないって事?
思いがけない言葉に私はぽかんとなった。一瞬何が起きたのか理解できなかった。マイクを手に茫然としているまぬけな新人。鈴木総理は私を見て「意味わかるかな?」というかのようににやりと笑い、SPに囲まれながらゆっくりと自宅へと向かった。バタンと音がして扉が閉まった。そのとたん、静寂だった住宅街に記者団の声が響き渡る。
「総理辞任、総理辞任!!」
「政局だ!」
怒号が飛び交い騒然となった。え?辞任?そういうこと?私は恥ずかしいことに総裁選に出ないという事が総理の職を辞することを意味するということもまるでわかっていなかった。こうしてマイクを持ってぼうっとしている新人をよそに、鈴木総理の電撃辞任の第一報は夜中に各社を駆け巡ったのだった。

翌日の夕方のニュース画面では鈴木総理と同じ画角の中ででマイクを握っている私の間抜け面も写しだされ(すぐ隣にいたので)まるで単独インタビューをしているかのような誤解を与えた。そして…
「社会部で使えないけど政治部では使えるかも?」という大誤解・妄想をも与えてしまったのだった。
そんな事になっていたとはつゆ知らない私は貸し出し期間を終えて社会部に戻り、企画モノをせっせと取材していた。企画取材の面白さがわかって社会部で充実した記者生活を送っていたある日、突然の辞令で政治部への配属が言い渡される。政局にはまるで興味のなかった私にとって大ショックの人事だった。中曽根康弘政権が誕生した1か月後の1982年12月のことである。 つづく。
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