こんにちは。廣瀬祐子です。テレビ記者38年やってました。前回に続いて、政治部新人時代のその後の思い出についてお話しします。
前回(その①)を見ていない方はどうぞこちらへ
1983年の冬、私は突然、政治の荒波の中に放り込まれた。政界で『風見鶏』と揶揄されながらも総理大臣となった中曽根康弘首相の番記者だった。弱小派閥出身ながら、総理就任と同時に矢継ぎ早に改革案を打ち出す総理の姿は、私にはまるで別世界の住人のように見えた。
『総理になったらやりたいことをノートに書き続けたら30冊になった』。
どこへ行っても挨拶で語るこの言葉は、彼の並々ならぬ決意を表していた。
国鉄、行財政、教育、防衛…『戦後政治の総決算』と銘打たれた中曽根改革は、まさに息つく間もないほど多岐にわたっていた。
外交の舞台でも、その手腕は鮮やかだった。就任直後の年が明けたばかりの日に韓国を電撃訪問したかと思えば、間髪入れずにワシントンへ飛びレーガン大統領との個人的な信頼関係を築き上げていた。
目まぐるしい時代の中心に、私は文字通り『突然』放り込まれた。初のテレビ局女性政治記者という、ありがたくない肩書だけが先行し、経験も覚悟もない23歳の冬。居心地の悪い、冷たい風が吹き抜けるような毎日だった。『勢いで政治記者になっただけ』の私には、『総理になるために生まれてきた』熱意と覚悟を持つ中曽根総理をどう取材すればいいのか、皆目見当がつかない。ひたすら背中を追いかけるだけが精一杯だった。

官邸の会見室を歩く私のヒールの音は周囲の視線を集めた。目立たないようにしても悪目立ちする。
『鮫の大群の中に放り込まれた鰯』そう揶揄する同僚記者もいた。『お願いだから、私のことは放っておいてください』自意識過剰な被害妄想に苛まれる日々。総理番の仕事は、文字通り総理の後を追いかける仕事。慣れない緊張と失敗の連続の日々の中で、『官邸シンデレラ事件』が起こったのだ。

官邸の赤い絨毯に残った片方のパンプス
旧官邸の正面玄関から二階へと続く階段には、深紅の絨毯が敷かれていた。内閣改造のたびに、新大臣たちが晴れやかに記念撮影に臨む場所だ。1983年当時、総理が官邸に到着し、執務室へ向かうまでのわずかな時間、私たち番記者は自由に質問をすることができた。新聞、通信、テレビ各社合わせておよそ15人。一言一句聞き漏らすまいと、私たちは総理を文字通り取り囲み、狭い階段を押し合いへし合いしながら、まるで巨大な団子のように群がって上っていく。そして執務室の前までたどり着くと、総理に質問した記者を中心に、質疑応答の内容を各社ですり合わせる『メモ合わせ』が行われた(後ろにいたのでは総理の声が聞こえない。公平性の問題と、各社ばらばらの記録では整合性が取れない、という理由からだった)。

ある時、国会改革を巡るやり取りだったと記憶しているが、いつものように大勢の番記者たちとひしめき合いながら階段を上っている最中だった。誰かの足が私の足にぶつかり、右のパンプスが脱げてしまったのだ!『あっ!』と思った瞬間には、すでに団子の塊の中に埋もれて身動きが取れない。そのまま片足は裸足のまま、私は階段を上りきり、二階の総理大臣執務室前にたどり着いた。やけに冷たい右足を後ろに隠しながら、何事もなかったかのようにメモ合わせをしていると、一人のSPが近づいてきた。その両手には、脱げ落ちた右の黒いパンプスが、宝物のように載せられていた。
「どなたか、この靴に合うお嬢さんはいらっしゃいませんか?」
皆が一瞬、怪訝な表情で周囲を見回す。そして、片足だけ靴を履いていない私の姿が目に飛び込むと、静寂を破って記者団から爆笑が巻き起こった。私のパンプスは、赤い絨毯の隅でころんと横たわっていたに違いない。SPは恭しい仕草で、その黒いパンプスを私の前に置いた。恥ずかしさのあまり、私は無言で靴を履く。するとSPはにこやかに言った。
「お嬢様の足に、ぴったりでございます」
再び、どっと大きな笑いが起こった……。

この一件は、いつしか『官邸シンデレラ事件』と呼ばれるようになり、その後も語り継がれたらしい。今思い返せば、当時の私は本当に地に足がついていなかったのだ。こんなこともあった。寝坊して飛び起き、慌てて国会議事堂内を猛ダッシュで走っていたら、前方から上司に呼び止められた。上司は私の足元を指差し、「それは最近の流行なのか?」と不思議そうな顔で聞いてきた。流行?訝しんで自分の足元に目をやると、右足には青い靴、左足には茶色い靴が履かれていた。靴が脱げるという喜劇と悲劇が入り混じった事件の教訓から、私は高さのあるパンプスではなく、低いウェッジソールの靴を色違いで何足か買い揃えていた。感触が同じだったため、うっかり左右を履き間違えてしまったのだ!上司は呆れた顔で言った。「一体、玄関はどうなっているんだ!みっともないから、すぐに履き替えて来い!」仕事以前の問題である。
『左右違う靴を履いて国会に来る女』という新たな噂は、『官邸シンデレラ事件』と並んであっという間に広まり、私はまたしてもからかいの対象となった。『私のことは放っておいて!』と心底思う一方、自らネタを提供している自分の情けなさがやるせなかった。
後藤田官房長官の教え
実力もないのに存在だけが悪目立ちする中、写真週刊誌から『テレビ業界初の女性政治記者』として取材したいというオファーが舞い込んだ。断固断る!しかしその1か月後、今度は系列の新聞社からオファーがあり、これは社命とあって受けざるを得なくなった。取材する側が取材されるなんて…。実績なし、経験なし、失敗ばかりの私が……。国会内の殺風景な控室で、私は嫌々ながら取材に応じた。
『女性記者としての視点を政治取材にどう生かすか』という何度も聞かれる質問に、しどろもどろで答え、最後に写真撮影となった。午後の後藤田官房長官の会見も控えており、撮影場所は記者会見室になった。またしても、周囲の記者の視線が突き刺さる。一刻も早くこの状況から抜け出したかった。カメラマンが私に、後藤田長官の隣に立って、質問するふりをしてくれと指示した。言われるまま、私はメモ帳を取り出しペンを持ち、長官の横にぼうっと立った。すると、その様子を面白そうに見ていた後藤田正晴官房長官が、突然こう言った。
「君は、わしに何か質問することはないのかね?」
私はハッとして顔を上げ、長官の目をまっすぐ見た。口元はかすかに笑っているように見えたが、その奥の目は鋭く、笑っていなかった。
「記者というのは質問するのが仕事なんじゃわ。何でも聞いてええよ。君の質問には答えるから」
後藤田長官の、全てを見通しているかのような余裕の表情。周囲の記者達から
「いいなあ~、俺は一度もそんなこと言われたことがないよ~」という声が上がった。
しかし、私は声が出ない。
『カミソリ後藤田』と恐れられた大物官房長官に、一体何を質問すればいいのか、頭の中が真っ白になっていたのだ。
すると、官房長官は静かに、しかしきっぱりとした口調で言った。
「質問しない記者はな~、記者とは言わん」。
私ははっとしたが、何も質問できないままだった。

あの時の悔しさは、今でも鮮明に蘇る。『官房長官になって一番楽しいと思うことは何ですか?』でも、『記者会見で気をつけていることを教えてください』でもなんでもよかった……気の利いた質問をしなければ!と思い込んで何も聞けなかったのだ。
それまでの私は『女性』記者としてどうするべきなのかばかり気にしていた。しかし、私は自分の意志を持つ一人の記者なのだ!プロの記者として、質問をするのが私の仕事なのだ!官房長官の言葉で私は初めてそのことに気づいたのだった。
ヘレン・ケラーが初めて『ウオーター』という言葉を理解し、両手を挙げて叫んだ時の気持ちが、ほんの少しだけ分かったような、覚醒したような瞬間だったのである。
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