政治部新人記者時代~その③ロッキード判決の日

こんにちは。テレビ記者38年。廣瀬祐子です。失敗と混乱と涙の政治部新人記者時代の話を続けます。

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83年10月12日、ロッキード事件の一審判決の日の事でした。

判決当日を迎えた午前の記者会見で、田中派の重鎮にして中曽根内閣の屋台骨でもある官房長官の後藤田正晴氏は「田中角栄元総理に対するロッキード事件の判決が(本日これから)出る事について」質問を受けると超不機嫌な顔で「日本は三権分立の国である。司法の判断に政府がコメントすることは何もない」の一言で切って捨てた。とりつくシマのない機嫌の悪さと威圧感に官邸内の記者会見室はし~んと凍り付いた。

そして注目の判決。東京地裁は田中元総理に対して懲役4年の実刑判決を言い渡し、無罪を期待し半ば信じていた官邸に文字通りの大激震が走った。午後の官房長官の会見はぴりぴりした緊張感に包まれ、後藤田長官は「鬼すら逃げ出す」形相で記者団をにらみつけ、判決について問われても一切コメントしなかった。記者団からも「さら問い」(追加質問)が出ない。会見の様子を本社のMデスクに伝えると「何やってんだよ!だらしないなあ。懇談で絶対聞け。」と言われる。記者会見の後に官房長官は記者と懇談するのが通例だ。総理番記者の私は普段は官房長官の懇談には出ることはないが、この日はなぜか新人の私が出る羽目になっていた。

後藤田官房長官への質問

官房長官の懇談室で後藤田長官はたばこを吸いながら「煙草を口にくわえてゴルフをするとシャツに焦げ跡がつくのでいつも家内に叱られる」という雑談をして記者団を笑わせている。私はじりじりしてきた。一向に判決の話題にならないし、誰も質問しようとしない。このまま懇談が終わるとデスクに怒られる!それだけは避けたかった。そこでしかたなくおずおずと切り出した。
「あの~きょうのロッキード判決で有罪が出ましたが…(全員の視線が集まる。後藤田長官の厳しい目が私をじっと見る)どのように…受け止めます…か。(どんどん声が小さくなっていく)

「うむ・・・」と後藤田長官。全員が固唾をのむ。すると
「君んとこの(政治)部長はS君だったかな?」
「・・・?はい、そうです」(S部長は田中派担当だった)
「君は社に戻ってS君に今の質問をしろ。S君の答えがわしの答えだ」 
はあ?私は予想外の答えに返す言葉すら見つからず懇談はし~んとなってそのままお開きとなった。
人には質問するのが記者の仕事だといったくせに…質問に答えてもらえずはぐらかされて終わり。がっかりしながら部屋を出ようとする私の肩を他社のベテラン記者がぽんぽんと叩きながら言った。
「聞いてくれて助かった。後藤田は答える気がないって事がよくわかったから」

どう質問すればよかったのか?

この時の不完全燃焼感はその後も長く私の心の中に居座り続けた。一体どう質問したらよかったのだろう。質問の方向性や表現を変えたとしても「答えない」と確信している人からは何のコメントも引き出せないのか。それとも質問の方向性を変えればよかったのか。「今回の判決が今後の政局運営にどのような影響を与えるとお考えですか?」「国民に対して政府としてどのようなメッセージを伝えますか」などと聞けば多少の変化はあったかもしれないが、当時の政治状況では現代ならよく使われる「国民へのメッセージ」という概念は存在していなかったように思う。政治部時代を経て私は社会部へ異動するが、「どう質問するか」は記者生活全般を通じて常に大きな課題だった。
余談となるが、後藤田長官とは10数年の時を経て、警察庁を担当した時代に取材する機会が再び訪れた。彼は元警察庁長官の経歴もあり、多発する警察不祥事を受けて2000年に発足した警察刷新会議の委員となっていた。警察の課題について様々な角度から質問する私は、凄腕の官房長官を前に委縮していた昔の新人記者ではなかった。ふとロッキード判決の日を思い出して話題を振った。
「あの時ははぐらかされましたが、実際はどう思っていたのでしょうか?」後藤田氏の答えは
「全く覚えちゃおらんよ。忘れたね」そしてその目は少しも笑っていなかった。

田中・中曽根会談の場所を突き止めよ!

元総理の犯罪を認定したロッキード判決は中曽根内閣の支持率低下に直結した。田中元総理の影響力と党内での支えを基盤に誕生した内閣が果たしてその影響力から抜け出すことができるのかどうかを政界が注目していた。支持率低下の打開策として中曽根総理が田中元総理に議員辞職を促すのではないか、そのための巨頭会談が開かれるのではないかという観測が永田町中に流れる。私もデスクから「田中・中曽根会談がどこで行われるのか場所を突き止めろ」と厳命を受けていた。とはいえ新人記者にトップシークレットの情報がとれるものでもない。中曽根派の政治家や秘書官に聞いても「知らない」「聞いていない」ばかりだった。プレッシャーで胃がキリキリと痛んだ。総理のSPは当時誰からも相手にされていない私に同情してくれて、暇な時には話し相手になってくれていた。雑談の合間に膨らんだ胸のポケットをたたきながら「ここには拳銃もあるよ。見せられないけど」等と笑った。私は思い切ってSPの一人に田中・中曽根会談の開かれる場所を教えてほしいと頼むと、困った顔をして「う~~ん」と唸る。公務員には守秘義務があり、情報を外部に漏らすことができない。それでも何度も食い下がるうちにヒントをくれた。
「官邸から一番近いホテルで総理がお気に入りの場所」だという。

私は裏付けもとらずに、その頃よく総理が会合で使っていたホテルニューオータニだと思い込んでしまった。すぐに本社に電話をする。
「そうか!でかした!」
日本テレビはニューオータニの出入り口3か所にカメラを配置した。そして夕刻を迎える。これまで見たこともない苦渋に満ちた表情で中曽根総理が執務室から姿を現した。果たして行先はどこなのか?
「総理どこに行くんですか!」
「どこですか!!」団子状態で総理を取り囲む記者団から怒号が飛び交う。団子から弾き飛ばされ私は官邸の赤絨毯の上でひざをついた。そして私の耳に届いた言葉は…
「オークラ!オークラ!総理はホテルオークラだ」
ああ~…がっくりとうなだれる。ニューオータニじゃなかった!オークラだった。そういえば総理はホテルオークラのスパの会員だった。お気に入りホテルというのはホテルオークラだった!どうして早合点してしまったのだろう。悔やんでも悔やみきれなかった。カメラクルー3班は急遽オークラへと移動したのだが、冒頭の会場入りの撮影には間に合わなかったと後から聞いた。カメラマンは映像を撮るのが仕事。記者は情報をとるのが仕事だ。一体何をやっているんだろうと思うと自分が許せず、情けなく、がくりとひざを落としたまま、政治部に来て初めてくやし涙を流したのだった。官邸の赤絨毯がぼうっとぼやけて見えた。

つづく~

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ABOUTこの記事をかいた人

日本テレビで記者職を34年。その後討論番組を担当し、今年1月に 定年退職しました。これまでの経験を生かして働く女性の悩みに答えて 少しでも助けになればと思っています。よろしくお願いします。