にっかつ撮影所の火災現場で…

こんにちは。廣瀬祐子です。テレビ報道記者を38年やってました。今回は『前回の話』に引き続いて1989年に起きた火災現場からのレポート取材について書こうと思います。

1985年のジャンボ機墜落事故以降、上司から一切現場レポートの指示が出なくなっていた私は、文部省の記者クラブで教育企画の量産に励みながら、伊豆大島の噴火やソウルオリンピックの取材をした。
1989年 2月、社内異動で警視庁捜査1課の担当となる。異動初日に大事件が発生したのだが(別途)その4日後の2月10日には東京調布市にある「にっかつ撮影所」で撮影中に火災が発生、中継車やカメラ取材班と共に現場へと向かった。

現場に到着すると消火活動の真最中で配線が焦げ付いたような匂いが充満していた。特殊撮影中に発煙装置が突然発火し、2階建てのスタジオの半分が消失する大火災だった。現場到着したカメラマンが素早くカメラを肩にかついで撮影を開始するのと同時に、大勢の記者に取り囲まれている消防庁の広報担当者を探してその輪に加わった。

ホワイトボードに水性ペンで書かれた負傷者の数は6人から8人、11人・・・とその数はどんどん増えていく。出火原因は?現在調査中。重傷者は?意識不明の重体一人。負傷者は?増加中。氏名は?確認中。取材をしていると中継スタッフが迎えにきた。
「撮影所近くに中継車が停められなかったから離れた場所にいる。今すぐ向かわないと18時の中継に間に合わないよ!」
「え?あと5分しかない?」
原稿が未完成のままスタッフと一緒に全力疾走する。

中継車の屋根上からレポート!

はあはあと息を切らしながら中継車の前まで到着すると、デイレクターが「早く!すぐ登って!」と言いながら上を指さす。え?なぜ上?見上げると撮影所の塀にぴたりと寄せてある車体の横に梯子がかけられ、屋根の上には三脚を立てたカメラマンが待機。その足元にマイクが転がっていた。
「え?あの屋根の上から?」「あそこからが一番よく見えるんだよ!早く!あと1分!」

あわてて梯子に飛びついてよじ登る。生い茂った木々が中継車を取り囲んでいた。梯子を登っていると木の枝がスカートのファスナーの穴にひっかかる。取ろうとするがまったく動かない。

「あと30秒!」

まずい、このままじゃ放送に間に合わない!ええい!木の枝を力任せに引っ張った途端、ファスナーがビリっと布地からはずれ、スカートがそのままストンとずり落ちてくる!
よりによってこんな時に…これじゃ漫画そのものだ!
2月というのに玉のような汗が噴き出してくる。

「あと20秒!」

私は左手でずり落ちてくるスカートをむんずとつかみながら右手に体重をかけ無我夢中で屋根に登った。床にちょこんと載っていたマイクを右手で握ると、中継車の屋根にどん!と仁王立ちとなった。途端に車体がぐらりと大きく揺れる。左手はスカート、右手はマイクで両手がふさがっている!書きとめていた原稿を読むことなどできない!

「10秒前!」

ああ~日航機事故の時の悪夢がよみがえる。またしても言葉が出てこないレポートになるのか・・・・と思ったその時だった。

テレビの仕事はチームの仕事

「後ろを見ろ!」とカメラマンが叫んだ。振り向くと撮影所は勢いよく燃え盛る火に包まれ消防ホースから噴射される水が煙のように舞い上がっていた。中継デイレクターや運転担当者がベストポジションを確保してくれていたのだとこの時初めて気付いた。

「5秒前!」

テレビはチームだ。誰もが皆自分たちの仕事を誠実にやっている。私の仕事はそれを言葉で伝える事だ。火が勢いよく燃え盛る中で、「消火活動には当分時間がかかること、特殊な撮影中の火災である事、負傷者の数が増えていて、重体のスタッフ一人が含まれていること。原因はまだ調査中であること」などを伝えた。火災現場を振り返りつつ伝えた1分半の中継が終わった。

日航ジャンボ機の墜落時のレポートから3年半の月日が経っていた。

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ABOUTこの記事をかいた人

日本テレビで記者職を34年。その後討論番組を担当し、今年1月に 定年退職しました。これまでの経験を生かして働く女性の悩みに答えて 少しでも助けになればと思っています。よろしくお願いします。